高野山真言宗 月見山福寿院

沿革 福寿院の案内とあゆみについて

福寿院の案内とあゆみについて 沿革

雲晴るる法の御山の月見寺 救世観音の誓い頼母し 雲晴るる法の御山の月見寺 救世観音の誓い頼母し

雲晴るる法の御山の月見寺救世観音の誓い頼母し

福寿院は高野山真言宗の寺院で、本尊は阿弥陀如来です。創建は鎌倉時代末期の「正和3年(1314年)である」と元禄元年(1688年)に福寿院住職が記した記録に残っています。場所は道志川の清流を眼下に見下ろす牧野【野仲】の地で、その場所から眺める月の美しさと水の清らかさから、山号を月見山(がっけんざん)としたと伝えられています。ところが火災に遭いすべてが消失したため、残念ながら当時の記録は残されておりません。その後、現在地に移転しますが、正確な移転の時期は不明です。過去帳や檀家の石碑に「慶長・元和~正保・慶安年間(1596~1651年)」の記録が複数ありますので、江戸時代初期に移転したものと考えられます。現在の本堂の建立も正確な記録はありませんが、柱の年輪の減り具合から18世紀後半頃と考えられ、築200年は経ているようです。

津久井観音霊場及び
関東91薬師霊場

福寿院は津久井観音霊場43番札所であり、観音菩薩は6年ごとの本開帳、中開帳の期間のみ公開しています。薬師如来像は14世紀末~15世紀初頭の作と思われ、相模原市の重要文化財に指定されており、関東91薬師霊場の20番札所になっています。

福寿院墓地及び
日本庭園陵墓「紅葉亭」

福寿院墓地及び日本庭園陵墓「紅葉亭」

福寿院墓地は当院境内地にあり、木々に囲まれた小鳥のさえずりが聞こえる自然豊かで墓域の一区画も広く、福寿院の檀信徒を対象とした墓地です。日本庭園陵墓「紅葉亭」は相模原市南区磯部の地にある当院が事業主体者の霊園です。名前の如く墓域内に日本庭園が2ヵ所あり、日本庭園を散策しながら四季折々の自然を感じながら静寂な墓参のできる霊園で、宗派を問わず求めることが出来ます。

福寿院のあゆみ

  • 創建 鎌倉時代末期、牧野【野仲】の地で開山

    福寿院の創建については、元禄元年(1688年)正月十五日付けで真政和尚(福寿院第十五世、元禄六年九月二十四日寂)が過去帳の冒頭に記した文書があります。この記録は寺伝として伝わる「福寿院は元寇の際、神風が吹き元軍を破った戦勝を祝い建立された。あるいは、元軍の再来を防ぐための祈祷寺として建立された」と創建時期が符合します。ともかく、鎌倉時代末期の今から約七百年前、道志川の清流と青野原の大地を眼下に見下ろす牧野【野仲】の地に建立されたのです。

  • 江戸時代前期に現寺院の原型が完成

    福寿院は創建から約三百年後の江戸時代初期に現在地に移転します。移転の正確な時期は不明ですが、過去帳に「慶長・元和~正保・慶安年間」(1596~1651)の記録があり、この頃に移転したものと考えられます。歴代住職の名前がはっきりするのは第15世の真政和尚(元禄六年(1693)寂)以降である。この時代のものとしては「弘法大師木像」(元禄七年、實宣造の銘あり)や「天満天神宮」(通称 天神様、延宝七年造顕(1679))は造立時が明白です。
    また、「閻魔王坐像」には享和元年(1715)の修理銘札があり、それ以前に造立されたことは明らかです。その他、御本尊「阿弥陀如来」を始め「不動明王」「聖観音坐像」「地蔵菩薩立像」も江戸時代作と言われています。このように、江戸時代前期には多数の仏像が造立され、ほぼ、現寺院の原型が完成したものと思われます。

  • 江戸時代中・後期に現本堂建立

    江戸時代中期の宝暦年間に当篠原地区住民が氏子である「大石神社」の建て替えがあり、「神霊」を一時福寿院に移しました。そして宝暦八年(1758)に現在の大石神社が建立され遷宮祭には福寿院から大石神社まで大行列をなし、第22世泰秀和尚が導師を務めたことが古文書に記されています。
    現在の調査では、福寿院の現本堂が建立されたのは、柱の年輪の減り具合等から推測し18世紀後半頃と考えられています。大石神社建立と前後して建立されたものと思われます。
    当時の篠原地区は約100世帯であり、近隣地区からみても大きな集落でしたが、その世帯数で寺院及び神社を建立するのは一大事業であり、檀信徒の篤い信仰心、高い建築技術、懸命の財政支援や労働奉仕、等々の賜物です。なお、この時期は「護摩供養」の開催、現在、山門脇にある幅70㎝高さ90㎝の「石像地蔵菩薩」の建立(寛政6年1794年)等もあり、福寿院の発展期と言えます。

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